2016年4月26日火曜日

お金は社会の気血? その2

続き。

気血というのは、全身を巡っていますが、全身に供給される”量”に関して言えば、平等ではありません。

例えば、血を解毒する働きを司る肝臓などは、とても大きな臓器です。
東洋医学では、”肝は血を蔵す”と言われ、当然、集まってくる血の量は多い。
指先の毛細血管に供給される量とは、全然違います。


でもそれは、単なる役割の違いに過ぎません。


気血が多く配分されるところは、それだけ気血を多く必要とする機能を受け持っている、というだけです。
気血の量の多少が、上下関係を決める訳ではないですし、もちろん、カラダの器官には勝ち組も負け組もありません。

ひとつのカラダを構成する上で、どれ一つとして欠けては成り立たないものであり、気血から見れば、どの器官も細胞レベルでは平等です。


身体を正常に機能させることこそが、各器官の絶対的な存在意義です。

役割を果たすためには、エネルギー(気血)が必要。
だから、気血が集まってくるのであって、どの臓器であれ、気血を集めることそのものを目的にしてはいません


でも”お金”は…


“お金を集めること”が、今の世の中の目的になってしまっているような気がします(^_^;)

お金が、社会という一つの集合体を正常に機能させための、エネルギーなのだとしたら。
お金が多く集まるところというのは、言ってみれば、それだけの役割があるのではないでしょうか


それからもう一つ。
気血が多く集まるところは、それだけトラブルにも見舞われやすい、ということも知っておいて欲しいことです。


気血の巡りを滞らせると、当たり前のことですが、どこかが足りなくなると同時に、どこかは飽和状態となる。
経済的な問題に置き換えれば、貧困層と富裕層に二極化する、格差社会でしょうか。


それだけではありません。
滞って溜まった血は、血(おけつ)と言って、身体にとっては不要なもの、有害なものになります。
指先に疾患は少なくても、肝臓に様々な疾患名があるように、役割の大小によって与えられるものは、恩恵だけではなく、それがために起こりうるトラブルのリスクと背中合わせなのです。

お金をたくさん持つことのリスクは、心配しなくても、わたしは多分一生知ることはなさそうですが…


気血は、どこかが多過ぎても、少な過ぎても、全体の調和が保てません。
身体中を滞りなく巡らせることで、健康な状態を維持できるのです。


気血との相似を通して、世の中が健康になるための、”お金”の理想的なあり方を、考えてみて欲しいと思います。


”お金は多いほど豊かだ”と思わされていますが、
必要な時に、必要な分が供給されるのが、本当の豊かさなのかもしれませんね。



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