バランスと聞くと、たいていの人は完全に均衡のとれた状態を想像するかもしれません。
そもそもバランスという言葉は、重さを測る二つのお皿、つまり天秤やはかりを語源とするそうで、
そこから釣り合いのとれた状態―“均衡”や“調和”を意味する言葉となったようです。
この世界は、全てが完全に平等で同じ、ではありません。
それでいながら、完全に調和しているのが”自然の本来の姿"とも言われています。
完全な平等ではない例として、気候風土を考えれば分かりやすいでしょう。
地球上には、赤道直下の南国もあれば、一年中氷の世界もあります。
そこまで極端な比較でなくとも、例えば日本のように四季に恵まれた気候の中にも、夏と冬があります。
球体の地球が地軸の傾きをもって回転しているからこそ、気候の差が生じるのであり、全体としてはそれで調和がとれているのです。
薬膳や鍼灸など、東洋医学の最古の医学書と言われている「黄帝内経素問」に、
“陰極すれば陽となり、陽極すれば陰となる”
という言葉があります。
これは陰と陽は同じ一つのものであるということを教えてくれていると同時に、巡り続ける運動過程を示しています。
完全な均衡はその時点で完成されますから、変化というものが止まります。
しかし自然界は、刻々と変化を繰り返し続けます。
しかも、暑くなり続けることもなく、寒くなり続けることもありません。
不平等でありながら調和している、矛盾しているようでいて、実は全く矛盾してない。
自然界のバランスは、二枚のお皿が完全に均衡を保って静止するような次元では、捉えることができないのです。
この感覚は直線的・平面的な平等の考え方では、人の一生を測ることができないのに似ています。
この感覚が、近頃私たちに欠如してしまっているように思えます。
陰と陽は、量にしろ質にしろ、完全に同じ状態では存在しないのです。
と言うよりも“差”の強弱を、便宜的に陰と陽と呼ぶのでしょう。
そしてその“差”こそが、変化を生じさせます。
変化しているもののある一場面だけを切り取れば、強弱・濃淡・長短といった不平等があるのは、むしろ当然と言えます。
しかしそれは変化の途上であって、絶対のものではありません。
陰と陽は完全な状態へと状況を変化させる運動を繰り返しますが、
実際に陰と陽が完全に均衡を得た次の瞬間、今度は崩壊する運動を始めます。
そして崩壊と見える運動は、実は次の完成を目指す運動の始まりでもあるのです。
プラスとマイナスが表裏一体のことである、これはとても面白い法則です。
そして私たちの身の回りの様々なことに、その相似の現象を見て取ることが出来ます。
例えば悲喜こもごもの人生というものもそうかもしれません。
生と死もそうかもしれません。
そうやって考えてみると、良いことと悪いことの判断が、段々出来なくなってきてしまいます。
悪いことに思える様々が、もしかしたら良いことへと繋がるプロセスに過ぎないかもしれない。
どう捉えるかはその人によって違うのでしょうが、
陰と陽の巡りの運動は、おそらく何の停滞もなく繰り返されているのではないでしょうか。
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