2015年12月30日水曜日

冬の食養生レシピ①‐味噌粥

薬膳”と聞くと、“生薬を使った特別なお料理”
…といった印象の人が多いのではないでしょうか?

“薬膳”というのは、特別な食材を使ったお料理、というよりは、
“食べ方の理論”と思った方がいいのかもしれません。


薬膳には大きく二つの考え方があり、一つは食療
これは一般的に浸透している薬膳のイメージの通り、漢方生薬を使った“治療”するためのお料理。
すでになんらかの症状が出ている人に処方する、いわばお薬と同じ。

もう一つが食養
これは食をもって養生する、ということ。
養生というのは、バランスを崩したり、偏りが生じないようにケアすることなので、
言ってみれば病気にならないための“未病”の食事。
漢方生薬などは使わない、わたしたちがふだん食べている食事そのもののことなのです。

さて、この食養生で大切なのが、季節との関係。
自然界の季節のめぐりは、わたしたちの身体や心に、とても影響しているのです。
 
冬は陰の気が最も強くなる季節。
東洋医学では五臓のうち、水分代謝をつかさどる腎臓にもっとも負担がかかると考えられています。

冬は寒くて汗をかかないので、身体の中の水分を体外に排出するのに、どうしても尿に頼ることになります。
血液をろ過して尿を作る腎臓が忙しくなるので、負担がかかるというわけです。
その上、腎臓がもっとも嫌うのは、“寒さ”なんだそうです。

食養生では、この腎臓の働きを助け、
わたしたちの身体に、積極的に“陽”の気を取り入れることでバランスを取ります。

こういうと難しそうですが、実はとても簡単。
寒いこの季節は、身体を温めてくれる食材やお料理を食べればいいのです。

 連日の飲み会や年末年始のごちそうで、
ちょっと胃腸が疲れてしまう時期でもあるので、かんたんな食養生レシピをご紹介しましょう。

 


味噌粥の作り方

【材料】

冷や飯
だし汁
ネギ・生姜・大根・シイタケ等
*カマボコやチクワをみじん切りにしたものを加えてもおいしいです。
味噌適量

【作り方】

    ネギ・大根・シイタケなどを細かく刻む。生姜はすりおろす。
    小鍋にだし昆布を入れて、だし汁を煮だし、白醤油か塩を少々加える。
    ②に①の材料を入れて火を通す。
    冷や飯を入れて全体がなじむまで弱火にかける。
    最後に味噌を適量入れて、全体に味をなじませる。


これだけです。
溶き卵を落としたり、胡麻油や七味・柚子の皮などで香りをつけてもおいしいです♪

ネギ・生姜・大根はすべて辛味に属する食材で、身体を温めてくれます。

また味噌は、身体を温めるだけでなく、腎臓の利尿の働きを助け、
さらに昔から解毒作用があることでも重宝されてきました。

ごはんの代わりにうどんやお蕎麦を入れてみても、おいしいですよ。
いろいろと工夫してみてくださいね。

それでは、身体を養生しつつ…
新しくめぐってくる年が、素敵な一年になりますように。


 

2015年12月26日土曜日

不平等の調和

バランスと聞くと、たいていの人は完全に均衡のとれた状態を想像するかもしれません。

そもそもバランスという言葉は、重さを測る二つのお皿、つまり天秤やはかりを語源とするそうで、
そこから釣り合いのとれた状態―“均衡”や“調和”を意味する言葉となったようです。

この世界は、全てが完全に平等で同じ、ではありません。

それでいながら、完全に調和しているのが”自然の本来の姿"とも言われています。

完全な平等ではない例として、気候風土を考えれば分かりやすいでしょう。
地球上には、赤道直下の南国もあれば、一年中氷の世界もあります。
そこまで極端な比較でなくとも、例えば日本のように四季に恵まれた気候の中にも、夏と冬があります。

球体の地球が地軸の傾きをもって回転しているからこそ、気候の差が生じるのであり、全体としてはそれで調和がとれているのです。

薬膳や鍼灸など、東洋医学の最古の医学書と言われている「黄帝内経素問」に、

“陰極すれば陽となり、陽極すれば陰となる”

という言葉があります。
これは陰と陽は同じ一つのものであるということを教えてくれていると同時に、巡り続ける運動過程を示しています。

完全な均衡はその時点で完成されますから、変化というものが止まります。
しかし自然界は、刻々と変化を繰り返し続けます。
しかも、暑くなり続けることもなく、寒くなり続けることもありません。

不平等でありながら調和している、矛盾しているようでいて、実は全く矛盾してない。

自然界のバランスは、二枚のお皿が完全に均衡を保って静止するような次元では、捉えることができないのです。

この感覚は直線的・平面的な平等の考え方では、人の一生を測ることができないのに似ています。
この感覚が、近頃私たちに欠如してしまっているように思えます。

陰と陽は、量にしろ質にしろ、完全に同じ状態では存在しないのです。
と言うよりも“差”の強弱を、便宜的に陰と陽と呼ぶのでしょう。

そしてその“差”こそが、変化を生じさせます。
変化しているもののある一場面だけを切り取れば、強弱・濃淡・長短といった不平等があるのは、むしろ当然と言えます。

しかしそれは変化の途上であって、絶対のものではありません。

陰と陽は完全な状態へと状況を変化させる運動を繰り返しますが、
実際に陰と陽が完全に均衡を得た次の瞬間、今度は崩壊する運動を始めます。

そして崩壊と見える運動は、実は次の完成を目指す運動の始まりでもあるのです。

プラスとマイナスが表裏一体のことである、これはとても面白い法則です。

そして私たちの身の回りの様々なことに、その相似の現象を見て取ることが出来ます。

例えば悲喜こもごもの人生というものもそうかもしれません。
生と死もそうかもしれません。

そうやって考えてみると、良いことと悪いことの判断が、段々出来なくなってきてしまいます。

悪いことに思える様々が、もしかしたら良いことへと繋がるプロセスに過ぎないかもしれない。

う捉えるかはその人によって違うのでしょうが、
陰と陽の巡りの運動は、おそらく何の停滞もなく繰り返されているのではないでしょうか。





2015年12月21日月曜日

”無常”ということば

“無常”という言葉には、厭世観をあわせ持ったような響きが付きまといます。

“人の世ははなかい”
“生きることはむなしい”

日本の文化の根底には、この独特の人生観が見え隠れしています。

けれども、万葉集や上代の和歌などを見てみると、
割と(というかほとんどが(・・;))恋を主題にした歌が多く、
悲観的な表現もたいていが恋愛感情から生じている、言ってみれば幸せな嘆きです。
実際に恋に苦しんでいる状況の人からしたら、幸せでもなんでもないかもしれませんが…

それに、“花”と云えば“桜”が思い浮かびますが、上代の“花”は香りたつ“梅”が主流。

日本の文化はもともと、それほど“はかなさ”とか“むなしさ”にフォーカスしてはいなかったようです。

しかし、源平の争乱期や戦国時代を経て、
“人の世のはかなさ”を嘆く心が生んだ独特の人生観・死生観は、

日本文化に深く根ざしていくように見えます。

平家物語に曰く、
“祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり…”

方丈記に曰く、
“よどみに浮かぶうたかたは かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし…”

いろは歌に曰く、
“色はにほへど散りぬるを 我が世誰そ常ならむ…”

春に一時に咲き、風にはかなく散る“桜”が、
日本人の精神性を象徴する花と言われるようになったのも、そのせいかもしれません。

“はかない”人生の中でも潔く美しく生きよう、とか、

“はなかい”人生だからこそ、人との一瞬の邂逅を大切にしよう、とか、

反対に“はかない”んだから楽しんでせつな的に生きよう、とか、

いろいろと時代や階層によって表現は変わっていきますが、
やはり日本文化を生み出す一翼を担う観念だと思います。

でも“無常”という仏教用語の本来の意味は、

“この世界の全てのものは、とどまることなく常に生じたり滅したりして移り変わっている”

ということ。

言ってみると宇宙の真理を述べた言葉に過ぎず、そこに哀しみや嘆きはありません。

静止した状態が無く、常に動き続けるめぐりの中にあるのが、この世の真理である。
生と死すらも、そのめぐりの法則の中のこと。

“無常”とは、
陰と陽が絶えずめぐるバランスを、一言で見事にあらわした言葉ではないでしょうか。



平安女房装束 ”桜重” 百人一首第九番 小野小町より
 
花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

2015年12月20日日曜日

”いただきます”と”ごちそうさま”


仏教の曹洞宗を開いた道元という人が、
“食べ物”との向き合い方を説いた「典座教訓(てんぞきょうくん)・赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)」という教えがあります。  

“典座というのは、禅宗のお寺における役職の一つで、
修行する僧の食事や、仏さまへのお供えのお膳を担当する炊事係。

仏教の修行というのは、滝に打たれたり、座禅を組んだり…
ふだんの生活とはなじみのない特別なことをするように思いがちですが、
実は人が生きていく上で当たり前にしていることすべてが修行だとか。

道元さんは、その中でも調理や食事を頂くこと―つまり“食”こそが、とても大切な修行としています。
ですから炊事係である“典座”は、重要な役職なのだそうです。

教えには調理する人(典座)の心構えだけでなく、
食事を頂く人に対しても、食堂への入り方、食器の並べ方、食事の頂き方など、
シーンによって細かくその心得が説かれています。

中でも食事を頂くときに、五つの瞑想をするのだそうですが、
そのうちのふたつめに、

“己れが徳行の全欠をはかって供に応ず”

というものがあります。

自分がこの食事を頂くに足るだけの正しい行いができている存在か…を考えて食事を頂く“
というような意味です。

目の前の食事を頂いて、生き永らえる資格があるのかどうかを自分に問う、
というのは、とても厳しい自分との対話ですね。
そんなことを考えたら、ちょっと気軽に食べることができなくなりそうです。

でも、ここまで厳しくしないまでも、
その心の在り方は見習うことができるのではないでしょうか。

わたしたちはふだん、何かを食べるとき、自分が“食べ物を食べている“つもりでいます。
でも、“食べ物を食べる”ということは、命をつなぐ行為です。
わたしたちの命をつないでくれるのは“食べ物”のおかげ、なんですよね。

“食べさせてもらっている”という感謝の気持ちがよくあらわれているのが、
“いただきます”や“ごちそうさま”という言葉なのでしょう。

毎日のことでついつい言いそびれてしまうこともあるかもしれない、何気ない言葉ですが、今日の食事を頂くときは、ちょっとだけ気持ちを込めてみてくださいね。



2015年12月16日水曜日

陰と陽ってなんだろう?

日なたと日かげ。

難しそうですが、
これが“陰”と“陽”の考え方の基本です。

日なたは、温かい、明るい。
日かげは、寒い、暗い。

こんな風に、この世界に存在する、あらゆる物・現象は、対称的に分類できます。

光に対して影
昼に対して夜
太陽に対して月
熱いに対して冷たい
動に対して静
軽いに対して重い
男に対して女
白に対して黒
南に対して北
夏に対して冬

でも、これはもともと、何かをカテゴライズ(分類)するための考え方(二元論)ではなくて、
“比較する”理論、もっとも原始的なバランス法則の表現です。

この図を見たことがある人も多いと思います。




これは“陰”と“陽”を図式化したもので、名前は太極図。

黒い部分が陰、白い部分が陽。

この二つが一つの円の中に共存していて、バランスを保っていることを表現しています。

勾玉のような形は、陽の気と陰の気が運動している様子を表し、
陽が極限にまで達すると陰になり、反対に陰が極まると陽になること示しています。

気の性質として、陽は上に昇ろうとし、陰は下に降りようとします。

陰と陽のそれぞれの中に小さな円があります。

これは、陰の中にも陽が、陽の中にも陰が、それぞれ存在していることを現します。
 
円の中心を通る線をどこに引いたとしても、黒一色(陰)・白一色(陽)になることはありません。
そしてまた、黒と白が全く同じ面積になることもないのだそうです。

どちらか一方が強くなると、もう一方もそれに合わせて強くなり、一方が弱まると、もう一方も弱まる。
対立する関係にありながら、お互いがなければ存在することが出来ない。

陰と陽の気は巡り続ける運動の中で、
常に平衡(バランス)を保っている、その様子を太極図はあらわしています。

さて、さきほど陰と陽は”比較”の考え方だと言いました。

例えば、0℃の水と10℃の水を“温度”で比較します。
より冷たい物が陰、より温かい物を陽、とする時、
0℃の水が陰、10℃の水が陽、ということになります。

ですが、10℃の水と100℃のお湯を比較してみると…
100℃のお湯が陽、10℃の水は陰、ということになります。

10℃のお水は、陰にも陽にもなります。
比較するものがなければ、陰にも陽にもなれません。

これは全てのものに言えること。
陰と陽は絶対のものではなくて、比較する関係性の中で、どちらにもなり得る、ということです。

言ってみれば、全てのものは陰と陽の二つの性質を併せ持っている。
もっと言えば、陰と陽は同じものが姿を変えただけ、ということ。

太極図は止まって見えますが、これは一瞬を切り取った写真と同じ。
自然も、わたしたちも、止まっているように見えて、絶えず変化しています。

この図が、立体的に動いていることを想像すると、“陰”と“陽”のことが、
少し分かってくるかもしれません。




2015年12月8日火曜日

”食べる”ことの大切さ

わたしたちが生きる上で大切な生命力・エネルギーのことを、東洋医学では”気”と呼びます。

この”気”のチャージ方法は三つ。

ひとつめは、この世に生まれる時に、両親から受け継いだ”精気”。
”先天の気”とも呼ばれ、人によって量はマチマチです。

ふたつめは、生まれてから死ぬまで、一日も休まず呼吸をすることで取り入れる”空気”。
”天の気”とも言われます。

みっつめは、毎日の食事でチャージする”食べ物の気”。
”地の気”とも言われます。

ひとつめの”気”は、わたしたちには選べない先天的なもの。
ふたつめの”気”は、わたしたちが生きている限り、誰にでも等しく継続的にチャージされるもの。

の三つのチャージ方法の中で、わたしたちに選ぶことができるのは、”地の気”だけだということが分かります。

生きている間に、何を食べたか。
この差は、”気”=生命力・エネルギーの差になって現れると言えます。
 
”食べる”ことは、”生きる”ことでもあります。
健康や美と”食”との関係は広く知られるところですが、
ちょっと違った角度から、”食べる”ことの大切さを改めて知ってもらえたら、と思います。