2016年9月21日水曜日

今日は人こそ かなしけれ

大学時代のノートの端に書いてあったメモ。
 
昨日見し人 今日はなし 
 
今日見る人も 明日はあらじ
 
明日とは知らぬ我なれど
 
今日は人こそ かなしけれ
 
-『宝篋印陀羅尼経料紙今様』より-
 
『平家物語』の講義ノートに書かれていたので、源平の争乱期、末法末世の思想に関連があると思って書いたのでしょうか、よく覚えていませんが…


この歌、ずっと“哀しい歌”だと思っていました。
 

何一つとして、絶対のものはなく、完全のものもなく、時の流れとともに盛衰していく…

「昨日見た人が、今日はもう(この世に)いない」というのは、少しばかり誇張した言い方ですが、「昨日」を「過去」に、「明日」を「未来」に置き換えれば、誰にでもあてはまる内容です。


そんな人の世の儚さをうたっているとばかり思っていたのですが、最近、この歌が違った響きを持って聞こえるようになりました。


「かなしけれ」という言葉、原本を見たことが無いので、「かなし」がどのような表記をされているのか分かりません。

でも「かなし」には、文字通り「哀しい・悲しい」という意味もありますが、もう一つ、「愛おしい」という意味もあります。

 
過去にはまだ無かった、未来にはもう無い、それくらい儚い存在だからこそ、今日生きていることが「しみじみと愛おしい」という意味にも、とれるかな~と。


過去にはまだ無かった、未来にはもう無い。


考えてみれば、これって、当たり前のこと、というか、至極自然なことですよね。

人の一生だけでなく、例えば花でも、食べ物でも、建物でも、街でも、細胞でも、星でも。


スパンが短いか長いかの違いだけで、全てのものに共通することです。


それを「儚い」と嘆くのか、「尊い」と喜ぶのかは、時代背景や心情にも左右されますが、やっぱり喜んで生きたいと思います。


昨日はまだあったのに、今日はもうない、シャインマスカット…おいしかったです(^^)
 

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