昨日見し人 今日はなし
今日見る人も 明日はあらじ
明日とは知らぬ我なれど
今日は人こそ かなしけれ
-『宝篋印陀羅尼経料紙今様』より-
『平家物語』の講義ノートに書かれていたので、源平の争乱期、末法末世の思想に関連があると思って書いたのでしょうか、よく覚えていませんが…
この歌、ずっと“哀しい歌”だと思っていました。
何一つとして、絶対のものはなく、完全のものもなく、時の流れとともに盛衰していく…
「昨日見た人が、今日はもう(この世に)いない」というのは、少しばかり誇張した言い方ですが、「昨日」を「過去」に、「明日」を「未来」に置き換えれば、誰にでもあてはまる内容です。
そんな人の世の儚さをうたっているとばかり思っていたのですが、最近、この歌が違った響きを持って聞こえるようになりました。
「かなしけれ」という言葉、原本を見たことが無いので、「かなし」がどのような表記をされているのか分かりません。
でも「かなし」には、文字通り「哀しい・悲しい」という意味もありますが、もう一つ、「愛おしい」という意味もあります。
過去にはまだ無かった、未来にはもう無い、それくらい儚い存在だからこそ、今日生きていることが「しみじみと愛おしい」という意味にも、とれるかな~と。
過去にはまだ無かった、未来にはもう無い。
考えてみれば、これって、当たり前のこと、というか、至極自然なことですよね。
人の一生だけでなく、例えば花でも、食べ物でも、建物でも、街でも、細胞でも、星でも。
スパンが短いか長いかの違いだけで、全てのものに共通することです。
それを「儚い」と嘆くのか、「尊い」と喜ぶのかは、時代背景や心情にも左右されますが、やっぱり喜んで生きたいと思います。
昨日はまだあったのに、今日はもうない、シャインマスカット…おいしかったです(^^) |
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