ヘイちゃんのバランス絵本。
ひ、ふ…ときて、三冊目、“み”の制作が難航中です(;_;)
ちょっと逃避。
つらつらと考えたりすることを、徒然に…
唐突ですが、わたしたちは、物質化された階層、三次元の世界に生きています。
でも、目に見えるモノだけで、この世界が構築されているか、というと、どうでしょう。
例えば、心。
人の想いとか、想念と言われるものには、カタチがありません。
でも、それでは“存在しない”のか?
というと、やっぱりそうは思えない。
人を好きになる気持ちとか、何かを大事に慈しむ心が、目に見えない=存在しない、とは、思いたくないですよね。
“想い”の世界というものと、物質の世界と言うのは、不可分に混ざり合って存在しているように思えます。
言ってみれば、想念というのは、カタチになる前の状態、なのかもしれませんね。
目に見える、物質化された世界と、目に見えない、物質化する前の世界。
仏教ではこれを、“色即是空 空即是色”と説明しています。
*色は”目に見える物”、物質化したもの。
空は”目に見えない物”、物質化する前の本質。
こういう言葉を使うと、そこはかとなく“宗教”の匂いが漂ってくるように思われますが、この言葉はとても理路整然としていて、科学的だと思います。
“目に見えるモノしか信じない”、とか、”目に見えるモノが全て”という人もいますよね。
でも、”目に見えるモノ”の定義って、結構曖昧で、良く分からないものです。
例えば、リンゴが一個、目の前にあるとします。
今は、目に見えて、そこに“在る”。
でも、このリンゴが出来る迄、時空を遡れば…
一つの種から始まり、それがやがて芽を出し、木が育ち、何度目かの花を咲かせたうちの、一つが実ったとしたら。
“今”、物質化され、可視化された状態になるまでの変遷過程に置いて、それは、“無かった”ことになるのですかね。
それに、例えば、そのリンゴを“食べて”しまったら??
リンゴを食べたからと言って、わたしたちのカラダのどこかが、リンゴになるわけではありませんよね←当りまえ。
リンゴとカラダは、“同化”するわけです。
“同化”って一言で言えば、とても簡単ですが、どういうことなの??と、考えてみてください。
リンゴのカタチをしたモノを食べて、それは消化されて、リンゴ酸だの、カリウムだの、栄養素に分解されて、それが“吸収”されます。
こういう説明をされると、案外するっと入ってくるというか、説得力がありますよね。
でも、それって、具体的にどういうことが起きているのか、見たことがあるの?と言われると…
リンゴは目に見えるけれど、リンゴ酸って、見たことありますか?
カリウムなんて、元素の一つです。
あるのでしょうけれど、目に見えるか、と言われたら、認識できません。
でも、確かにカラダの中では“何か”が起きていて、食べたモノとわたしたちのカラダは、“ひとつ”になる。
ほら、こうして考えてみると、目に見えていなくても、なんとなく信じていることって、色々あるんですよね。
そしたら、あんまり“目に見える”ことに、こだわらなくてもいいように思います。
もっと言えば、“リンゴ”という定義も、“肉体”という定義も、“あるカタチを持って存在している”時点でのみ、そう判断されているにすぎません。
だって、時空を遡れば、それらは生まれる前には、まだ無かったのです。
それに、時が経てば、人はいつか死にますし、リンゴも放っておけば土に還ります。
“目に見えているモノ”は、数秒前にはまだ無くて、数秒後には無くなるような、結構心許ないものだったりするんです。
それだけが“絶対”の価値基準だと言うのは、ちょっと不自然な気がします。
反対に考えれば、カタチが無くなって、目に見えなくなったら、それは“存在しない”と言うことには、単純にはならないでしょう。
目に見えている物と、目に見えない物との境界は、本当はないのかもしれません。
“色即是空 空即是色”にしてもそうですが、物質化されたモノを“陰”、物質になる前の本質を“陽”と置き換えれば、これらが不可分にして、どちらかだけでは成り立たない関係であることが分かります。
これらは、先人達が“見た”のではなく、“観た”(観じた)、この世界の姿、宇宙の本質なのでしょうね。
今、目に見えない本質から、目に見える物質が生まれる瞬間を、“見る”ことは、出来ないかもしれません。
でも、わたしたちにも、“観じる”ことは、出来ます。
まだ現代科学もたどり着かない世界では、きっと、わたしたちが“まだ存在を認識できていないだけ”の物事が、たくさんあるんだろうな、と想像します。
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