立秋を過ぎて、なんとなく暑さの質が変わったように感じます。
アスファルトのそこここに、蝉の亡骸を数えるようになりました。
夏の終わりの夕暮れ時、ヒグラシの
“かなかなかなかな…”
という声に混ざって聞こえてくる、ホウシゼミの声。
カタカナで表記すると、
“ツクツクホーシ ツクツクホーシ…”
になるでしょうか。
これ、聞こえる音を、そのままカタカナにしたのかと思っていました。
大学のとき、他学部の講義にもぐりこんでいた時のこと。
東洋美術史だったか、文化史学だったか…もう正確には覚えていませんが、日本の文化の特徴を、西洋文化と比較して見るような講義内容でした。
日本文化の根底には、自然を敵視したり、支配しようとするあり方ではなく、自然と一体化し、調和するという姿勢がある。
文化というのは、衣食住すべてに影響するものであり、日本の美的感覚というのも、“自然”との関係を無視できない。
美術品を美術品として、額縁の中に絵画を納めて鑑賞するのが西洋的な感覚なら、
美術品を美術品として、生活から切り離したものとして考えず、生活の中に融合させるのが、日本の美的・文化的特徴と言える。
確か、こんな感じのことを言われていた記憶があります。
西洋文化と東洋文化の比較は、例外もあるでしょうけれども、分かりやすいですね。
西洋文化と東洋文化の比較は、例外もあるでしょうけれども、分かりやすいですね。
”自然”に対して、”人”というものが、対外的に意識されるのとは違い、東洋、特に日本文化は、自然と人が一体のもの、もっと言えば、人は自然に包括されるもの、として考えているところがあります。
そうすると、生活もまた“自然”であり、美術もまた“自然”である…境界線が曖昧になってきます。
文化的価値のあるものとして知られる代表的日本画の多くは、確かに屏風やふすま、団扇や扇子など、生活の中に溶け込んだものに描かれています。
わざわざ人の手をかけて、枯山水の庭に宇宙を描き、焼き物で苔むした岩を表現しようとするのも、盆栽に樹齢数百年の大木を模するのも、
“自然”が美の基準であり、美の神髄として表現されるものだからなのかもしれません。
この日本文化の特徴を、“自然”のミニチュアに過ぎない、と評価する人もいるかもしれませんね。
でも、 “自然”の時間の中で、人ひとりの生きる時間は、一瞬に過ぎません。
その短い時間の中で、人に与えられた時間では、決してたどり着けないような、自然の変化を表現する、というのは、とてもストイックで、そして命について真摯に向き合う姿勢でもあると思います。
教授が余談で話された、ホウシゼミのお話が、印象に残っています。
あれは、過ぎゆく夏を惜しむ、人の心を託した鳴き声。
“夏が終わるのが、つくづく惜しい、つくづく惜しい”
昆虫である蝉の鳴き声を、
“ノイズ(雑音)”とせず、“虫の音”とか、“虫の声”と表現するのも、また日本人独特の感性と言われます。
毎年変わらずにめぐってくる夏だけれど、同じ夏は二度とない。
命の価値を知るからこその、一期一会だったり、虫の音を慈しむ心なのかもしれません。