2016年8月12日金曜日

法師ゼミの鳴き声

立秋を過ぎて、なんとなく暑さの質が変わったように感じます。

アスファルトのそこここに、蝉の亡骸を数えるようになりました。

夏の終わりの夕暮れ時、ヒグラシの
“かなかなかなかな…”
という声に混ざって聞こえてくる、ホウシゼミの声。

カタカナで表記すると、

“ツクツクホーシ ツクツクホーシ…”

になるでしょうか。

これ、聞こえる音を、そのままカタカナにしたのかと思っていました。

大学のとき、他学部の講義にもぐりこんでいた時のこと。

東洋美術史だったか、文化史学だったか…もう正確には覚えていませんが、日本の文化の特徴を、西洋文化と比較して見るような講義内容でした。

日本文化の根底には、自然を敵視したり、支配しようとするあり方ではなく、自然と一体化し、調和するという姿勢がある。

文化というのは、衣食住すべてに影響するものであり、日本の美的感覚というのも、“自然”との関係を無視できない。

美術品を美術品として、額縁の中に絵画を納めて鑑賞するのが西洋的な感覚なら、
美術品を美術品として、生活から切り離したものとして考えず、生活の中に融合させるのが、日本の美的・文化的特徴と言える。

確か、こんな感じのことを言われていた記憶があります。

西洋文化と東洋文化の比較は、例外もあるでしょうけれども、分かりやすいですね。

”自然”に対して、”人”というものが、対外的に意識されるのとは違い、東洋、特に日本文化は、自然と人が一体のもの、もっと言えば、人は自然に包括されるもの、として考えているところがあります。

そうすると、生活もまた“自然”であり、美術もまた“自然”である…境界線が曖昧になってきます。
文化的価値のあるものとして知られる代表的日本画の多くは、確かに屏風やふすま、団扇や扇子など、生活の中に溶け込んだものに描かれています。

わざわざ人の手をかけて、枯山水の庭に宇宙を描き、焼き物で苔むした岩を表現しようとするのも、盆栽に樹齢数百年の大木を模するのも、 “自然”が美の基準であり、美の神髄として表現されるものだからなのかもしれません。

この日本文化の特徴を、“自然”のミニチュアに過ぎない、と評価する人もいるかもしれませんね。

でも、 “自然”の時間の中で、人ひとりの生きる時間は、一瞬に過ぎません。

その短い時間の中で、人に与えられた時間では、決してたどり着けないような、自然の変化を表現する、というのは、とてもストイックで、そして命について真摯に向き合う姿勢でもあると思います。

教授が余談で話された、ホウシゼミのお話が、印象に残っています。

あれは、過ぎゆく夏を惜しむ、人の心を託した鳴き声。

“夏が終わるのが、つくづく惜しい、つくづく惜しい”

昆虫である蝉の鳴き声を、 “ノイズ(雑音)”とせず、“虫の音”とか、“虫の声”と表現するのも、また日本人独特の感性と言われます。

毎年変わらずにめぐってくる夏だけれど、同じ夏は二度とない。

命の価値を知るからこその、一期一会だったり、虫の音を慈しむ心なのかもしれません。


2016年8月9日火曜日

目に見えるモノ、見えないモノ~"色即是空 空即是色"

ヘイちゃんのバランス絵本。
ひ、ふ…ときて、三冊目、“み”の制作が難航中です(;_;)
ちょっと逃避。

つらつらと考えたりすることを、徒然に…

唐突ですが、わたしたちは、物質化された階層、三次元の世界に生きています。
でも、目に見えるモノだけで、この世界が構築されているか、というと、どうでしょう。

例えば、心。
人の想いとか、想念と言われるものには、カタチがありません。
でも、それでは“存在しない”のか?
というと、やっぱりそうは思えない。

人を好きになる気持ちとか、何かを大事に慈しむ心が、目に見えない=存在しない、とは、思いたくないですよね。

“想い”の世界というものと、物質の世界と言うのは、不可分に混ざり合って存在しているように思えます。
言ってみれば、想念というのは、カタチになる前の状態、なのかもしれませんね。

目に見える、物質化された世界と、目に見えない、物質化する前の世界。

仏教ではこれを、“色即是空 空即是色”と説明しています。

*色は”目に見える物”、物質化したもの。
 空は”目に見えない物”、物質化する前の本質。

こういう言葉を使うと、そこはかとなく“宗教”の匂いが漂ってくるように思われますが、この言葉はとても理路整然としていて、科学的だと思います。

“目に見えるモノしか信じない”、とか、”目に見えるモノが全て”という人もいますよね。
でも、”目に見えるモノ”の定義って、結構曖昧で、良く分からないものです。

例えば、リンゴが一個、目の前にあるとします。

今は、目に見えて、そこに“在る”。
でも、このリンゴが出来る迄、時空を遡れば…

一つの種から始まり、それがやがて芽を出し、木が育ち、何度目かの花を咲かせたうちの、一つが実ったとしたら。

“今”、物質化され、可視化された状態になるまでの変遷過程に置いて、それは、“無かった”ことになるのですかね。

それに、例えば、そのリンゴを“食べて”しまったら??

リンゴを食べたからと言って、わたしたちのカラダのどこかが、リンゴになるわけではありませんよね←当りまえ。

リンゴとカラダは、“同化”するわけです。
“同化”って一言で言えば、とても簡単ですが、どういうことなの??と、考えてみてください。

リンゴのカタチをしたモノを食べて、それは消化されて、リンゴ酸だの、カリウムだの、栄養素に分解されて、それが“吸収”されます。

こういう説明をされると、案外するっと入ってくるというか、説得力がありますよね。
でも、それって、具体的にどういうことが起きているのか、見たことがあるの?と言われると…

リンゴは目に見えるけれど、リンゴ酸って、見たことありますか?
カリウムなんて、元素の一つです。
あるのでしょうけれど、目に見えるか、と言われたら、認識できません。

でも、確かにカラダの中では“何か”が起きていて、食べたモノとわたしたちのカラダは、“ひとつ”になる

ほら、こうして考えてみると、目に見えていなくても、なんとなく信じていることって、色々あるんですよね。
そしたら、あんまり“目に見える”ことに、こだわらなくてもいいように思います。

もっと言えば、“リンゴ”という定義も、“肉体”という定義も、“あるカタチを持って存在している”時点でのみ、そう判断されているにすぎません。

だって、時空を遡れば、それらは生まれる前には、まだ無かったのです。
それに、時が経てば、人はいつか死にますし、リンゴも放っておけば土に還ります

“目に見えているモノ”は、数秒前にはまだ無くて、数秒後には無くなるような、結構心許ないものだったりするんです。

それだけが“絶対”の価値基準だと言うのは、ちょっと不自然な気がします。

反対に考えれば、カタチが無くなって、目に見えなくなったら、それは“存在しない”と言うことには、単純にはならないでしょう。


目に見えている物と、目に見えない物との境界は、本当はないのかもしれません。


“色即是空 空即是色”にしてもそうですが、物質化されたモノを“陰”、物質になる前の本質を“陽”と置き換えれば、これらが不可分にして、どちらかだけでは成り立たない関係であることが分かります。

これらは、先人達が“見た”のではなく、“観た”(観じた)、この世界の姿、宇宙の本質なのでしょうね。

今、目に見えない本質から、目に見える物質が生まれる瞬間を、“見る”ことは、出来ないかもしれません。

でも、わたしたちにも、“観じる”ことは、出来ます。

まだ現代科学もたどり着かない世界では、きっと、わたしたちが“まだ存在を認識できていないだけ”の物事が、たくさんあるんだろうな、と想像します。




2016年8月1日月曜日

土用について

週末730日は、“土用の丑の日”でしたね。

今回は、“土用”について。
“土用”というのは、五行に由来します。

目下℃昏睡…わ!自動変換がすごいことに…(・・;)

木・火・土・金・水、それぞれの行に、季節を当てはめると、
木行が春。
火行が夏。
金行が秋。
水行が冬。

あれ、四季は四つしかないよ~、と言うことで、土行に当てはまる季節がありませんね。

そこで、春夏秋冬、全ての季節から、少しずつ土行のために、季節を分けてあげます(*^_^*)

大体、立春・立夏・立秋・立冬の前、1819日の間

この期間を、“土用”というのです。

ですから、“土用”というのは、夏だけではありません。
春にも秋にも冬にも、あるのですね。

*ちなみに、“丑の日”というのは、日にちを十二支で数えたものです。
今年は“申年”ですね。
干支は年だけでなく、月・日・時刻・方角などにも割り当てられていました。
“土用の丑の日”というのは、春夏秋冬それぞれにある土用の期間の、干支では“丑”の日のことになります。


この土用というのは、言ってみれば“季節が移り変わる期間”です。

土行に配当される五臓は、“脾”、腑は“胃”

季節の変わり目の土用には、脾胃を養生して、来るべき新しい季節にベストなカラダを準備したいもの。

特に夏の土用(正確には、立秋前の土用ですね。夏から秋への変わり目に位置づけられます)は、気候の上でも最も厳しい暑さで、食欲が落ちる時期です。
昔から、土用蜆・土用餅など、土用には滋養のつく食べ物を食べて、養生してきました。

わたしたちも、しっかり食養生して、夏本番も元気に乗り越えましょう!

余談ですが、“土用の丑の日”と言えば、“鰻を食べる日”と思っている方が、多いのではないでしょうか。

“土用の丑の日”と“鰻”の関係。
これには諸説あるようですが、江戸時代の奇才、平賀源内の発案と言うのが、有名なお話。

鰻というのは、その性は“温”であり、実は冬が旬のものです。

売れ行きの悪い夏、どうすれば良いかと、鰻屋さんが源内さんに相談したところ、“丑の日に「う」のつく物を食べれば夏負けしない”という風習を上手に利用して、“土用の丑の日に鰻を食べる”という習慣を定着させたと言われています。

実際、鰻には、元気を回復させる効果があるのですが、それにしても、江戸時代に企画された販促効果が、現代でもしっかり結果を出しているなんて、面白いですね()

「う」のつく食べ物としては、梅干、瓜、うどんなどが思いつきますが、いずれも夏の食養生で活躍してくれる食べ物達です。


*梅干は酸味が疲労を回復し、夏バテを防止。さらに殺菌力の高さから、食あたりなどのリスクを軽減してくれます。

*瓜(胡瓜・西瓜・冬瓜等)は、夏野菜の代表格として、カラダの熱を冷ます作用を持ち、水分補給にも最適です。

*うどんは、消化も良く、滋養効果が高い食べ物。原料である小麦は、“心の穀”ともいわれ、夏に最も負担のかかる“心”を助けてくれる効果もあるのだとか。


最後に、夏の土用の食養生レシピを、江戸時代のレシピ本『豆腐百珍』からご紹介します♪


【ハンペン豆腐】                                       

ながいもをよくすり 豆腐水をしぼりて 等分によくすりまぜ まろくとりみの紙に包みて 湯烹す 白玉ようふともいふ


…原文のままだと、ちょっと再現しにくいので、これをベースに作り方を書いてみますね(*^_^*)

〔作り方〕

   長芋をする。
   お豆腐はよく水切りしておく。
   ①②等分を、すり鉢でよくすりあわせる。
   ③をスプーンですくって、沸騰したお湯で煮る。

冷やして、薬味を添え、さっぱりと酢醤油で頂いても良いですし、梅肉で調味しても良いですね。
また、お湯で煮る他に、蒸しても、油で揚げても美味しいと思いますよ。
長芋もお豆腐も、胃腸の働きを助け、滋養してくれる食べ物です。

別に記事にした、”夏の養生法”を応用して、色々な食べ方を楽しんでみてください(*^_^*)